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今回はソニー創業者の井深大氏の伝記『「ソニー」創造への旅』の感想をまとめます。
6/28発行分の日経ビジネスでソニー特集が組まれていました。それがきっかけで井深大氏のことに興味が湧き、今回読んでみました。
世界一の技術力を誇るソニーがどのように創られたか。ぜひご覧ください!
目次:
本の概要
本書は井深氏の幼少のころから大学、就職、戦後東京通信工業を興し、幼児教育に目覚める迄を時系列に沿って、井深氏本人が語っています。
子どものころの話では、井深氏が物心つく前に父親が亡くなりました。そして地元の長である祖父母と母に育てられました。一時東京で母と二人暮らしをしていましたが、また愛知県の祖父母のもとへ戻り、小学校に入りました。
成績のよかった井深氏ですが、なかでも理科に興味を注ぎました。放課後に友達や先生と理科室にこもってホルマリン漬けの標本などを眺めていたそうです。ほかにも科学系の雑誌を読んだり、祖父のハイヤーに乗せてもらうなどで、好奇心を満たしていました。
10歳になると、母親が再婚し、母と離れ離れに暮らすことになりました。その心のさみしさを埋めてくれたのが科学と読書でした。また祖父の時計などを分解するなど科学への興味もとどまることはありませんでした。
中学前になると母と再婚した父とそのこどもらと一緒に住むことになります。その義理の父が酒癖の悪い人だったため、お酒を控える性格になったそうです。地元で一番の中学校に合格すると、勉強はそっちのけでテニスや自作無線などにはまりました。この学生時代無線にハマった経験が井深氏の進路を決めます。
ハマった無線を友人に1年間預け、猛勉強の末、早稲田学院に入学。進路選択の際に、無線などの弱電を専攻しました。そして写真化学研究所に就職。当時の大卒平均よりも多くもらえるほどにめきめき力をつけました。世の中が第二次世界大戦に入った際、長野県の須坂の工場に疎開し、軍事用の計器を作成していました。戦争が終戦すると、GHQの占領を恐れて須坂に残る組と、東京に進出する井深氏側に分かれました。そして東京で東京通信工業を設立します。
東京通信工業では日本で初めてのトランジスタラジオを発表。ポケットサイズの小型ラジオは世界中でヒットする製品になりました。会社名を海外でも耳なじみのよいソニーに変更します。井深氏の信条である「成せば成る」のとおり、その後トリニトロンの開発を毎日の残業の末達成しました。
井深氏の科学への興味
井深氏がソニーで多くの世界的ヒット商品を世に出すことができたバックボーンは、小さいころからの科学への興味です。それは幼少期から興味の目をつままずに伸ばしてくれた母や祖父の影響だと思います。
また、父が不在の家庭であったり、一時母親から離れた家庭環境だったことも、一般的な家庭の幸せではなく、自分自身の興味に集中する後押しになったのではないかと推察します。仕事から得られる幸せと、家庭から得られる幸せ。どちらが大切かはまだ私にはわかりませんが、井深氏の伝記を見ると、仕事からも十分な充実感を得ていると感じました。
ソニーの強さの秘訣
ソニーの強さの秘訣は、差別化された技術力です。それを支えているのが、井深氏の根底にある、「優秀な人材には相応の金額を支払う」という姿勢です。東京通信工業の創業の早い段階から大卒採用に力を入れていました。その優秀な人材に対し、興味のわく高い目標を掲げ、ハードワークで実現していく。この構造がソニーの強さだと思いました。またあくまでも技術的な差異によって商品力を確保するという基本に忠実なところも優秀な企業だと感じます。
幼児教育について
井深氏は幼児教育にも後年力を注ぎました。ソニーの伝統的精神「発想、企画優先」「人のできないことをやる」というチャレンジ精神のもと、科学技術の振興を目的とした活動を多く推進します。
幼児教育の例では、胎児の状態の際にドミソの音階を聞かせた子は、生まれた後もドミソの和音への反応が高く、音楽的センスが良い結果となりました。またバイオリンの早期才能教育で注目を集めていた鈴木鎮一先生も、しゃべることができない幼児のうちからバイオリンに触れている人のほうが上達が早いと話しています。その結果、井深氏はあらゆる学科においても幼児期からスタートすることによって、最大限の能力を発揮するのではないかと考えました。そして、実際に妊娠8か月の15人の母子とともに実証実験を行うなどしていました。
感想
仕事一筋という井深氏の生き方は、まさに昔の日本の男性像で、懐かしい気持ちになりました。私自身も小さいころは父は単身赴任の家庭でした。現場仕事で土日にたまに父が帰ってくる生活だったと記憶しています。
今はライフワークバランスという考え方が一般的となり、仕事一辺倒の姿勢が本当の幸せか疑問が投げかけられているように思います。しかしながら、戦後の何もない日本が技術大国に成長したり、アメリカなどに先駆けて世界発の発明を行う場合、仕事量は避けて通れないものだったんだと感じました。現代はとかく効率化の号令のもと労働時間を短くするように言われていますが、成功するためにはハードワークは必要不可欠だと再認識できました。(現に世界一の検索企業Googleはハードワークな企業として知られています)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
また次回のブログでお会いしましょう。